「知識」ではなく「知恵」を教えたい~教育基本方針2
ヤマサキ家の教育基本方針について述べるシリーズその2。
私の仕事上の肩書きで「フィナンシャル・ウィズダム」というオフィス名を名乗っているが、「お金の知恵」の意味である。
お金の知識は金融機関に質問すればいくらでも分けてもらえるが、「知恵」の部分は自分自身で考え判断しなければならない。知恵の部分をアウトソースしようとすれば、私たちはカモにされかねない。私たちには「お金の知恵」が必要だ、という意味を込めている。
子どもの教育方針においても同じ。最終的には、自分の頭で考える知恵のある子にしたいと考えている。しかし、知恵は、「知恵を教えればいい」というものでもない。
矛盾するようだが、「知恵」を得るためには「知識」が必要になる、とも考えている。
「知識」の貯め込みがかつてほど価値を持たなくなった時代になっており、今こそ必要なのは「知恵」だと思う。「知識」は人から借りてくることができるが、「知恵」の部分、すなわち自分の頭で考え判断する力は自分で持っておかなければならない。だからこそ、最終的には自分の頭で考える知恵のある子にしたい。
しかし、自分の頭で考える前提は、たくさんの選択肢を知っていることだ。何もないところから数学の問題を解ける人間はまさに天才だが、たくさんの数学の問題を解いた経験がある者は、類似問題について類推しながら比較的楽に解くことができる。
人生は数学ではないが、最初はたくさんの選択肢があることを知り、基礎的知識が詰め込まれている状態を作ってあげたい。先達の下してきた判断を考えさせつつ、基礎的知識を貯め込ませれば、きっとその上で自分の頭で考えるようになるだろう。そんな風に思っている。
ところで、「知恵」を身につけるような教育の実現のために、もうひとつキーワードとして考えていることがある。それは「リサーチ力」だ。
自分の頭で考えるため、自分でいろんな知識を探し、必要に応じて調べる力を身につけさせたい。自分は子どもの頃、頭がいいとちやほやされていたけれど、与えられるものだけを人より早く学習しているだけだった。与えられていないものをもっとたくさん収集する力があればよかったのに、と思い返す。
与えられるものを学習するだけではなく、自分で調べる手段や確認する方法を教えることがあわせて必要だ。そして、できるだけ、その制限は与えないようにしたい。インターネットの利用制限とかできるだけゆるくしてあげたいなと思っている。むしろ情報の渦に翻弄されたり、情報に執着して時間を浪費する愚かさを実感させて、乗り越えさせてみたい。
一見すると「賢い子ども」というのはいるけれど、実のところは「賢しげな子ども」でしかないような気がするので(自分が割とそういう子どもだったので間違いない)、「賢い子に育てる」は難しいと思っている。でも、その先のところに導いてみたいなと思うのである。